及川三栄子さんを訪ねて

今回は、創立百周年実行委員会委員長の及川三栄子さんにお話を伺いました。

お茶の水女子大学をご卒業後、長く教職に就かれていた及川さんは、松山女子高校卒業生として初めて母校の校長となられ活躍されました。ご退職後の現在も、驚くほど活動の幅が広く、お話は多岐にわたり、かつエネルギッシュ。時間も忘れて聞き入ってしまいました。

さまざまな活動をされていると伺いましたが、現在の生活の中心は何ですか?

 退職後、現場経験40年の中で見えたり気付いたりしていた教育と福祉の関わりについて、深く考える時間がありました。思い立って、社会福祉士の国家資格取得を目指し、おかげさまで無事取得できました。そこから、様々な福祉事業を経験しました。高齢者・障害者の生活支援、B型作業所相談員…。新たなスタート地点に自分が立つことを決心して数年。今は、「不登校・ひきこもり相談事業」に特化して、準備を進めています。

 NPO法人化も視野に入れ、同じ考えを持つ仲間をつのりながら、私自身も独立に向けて勉強しています。広く知識のみならず、体験や実践を重ねた方々とお会いして知恵や情報を頂いているところです。特に、高校生、大学・専門学校等の学生の状態で不登校になっている方々の支援を、面接を中心に、相談支援を展開したいと思っています。

 現段階は、仲間が集まり、社会福祉協議会とも相談しながら、行政のサポートを受けられる団体になれるように、体制作りから始めています。先々は、研修会などを保護者、教員、地域から依頼を受けて実施できるようになりたいと思います。

「強さ」を培ったものは……

 自分は強いとは思わないのですが、思い立ったり決めたことは、最後までやりきらないと気が済まない、だけだと思います。思い立つことはたいてい閃きみたいな感じから始まりますが、たいてい、自分も含め、人間の生きる辛さや苦しさにスポットが当たりますね。

 その原点は、おそらく、生育歴にあると思います。東京に生まれ育ち、私が5歳の時に父が他界し、その結果、埼玉県にきて、母親が養護施設で働く環境の中で、母子家庭で兄弟3人で生きてきました。私がほとんどの家事や兄弟の世話をすることで母の労働を支えたと思います。今の時代のヤングケアラーですね。洗濯も手洗いで水でした。冬の洗濯物が外で凍ってつり下がっている様子は、昨日のことのように思い出されますね。

 昭和30年代早々ですから、世の中の変化も日々激しかったし、また、生活環境の養護施設の子どもたちの状況も目まぐるしく変わり、その様子も子どもながら体感実感しながら生きていたと思います。「必死に生きる」ことが身の周りに全てで展開されていたと振り返ります。おそらく、それらの体験は私の中に原体験として培われ、今日に至っていると言っても過言ではないと思います。言語を超えた精神的支柱になっている感じはします。

なぜ、教師の道に進んだのですか?

 高校生、大学生の頃は、将来の職業は家庭裁判所の調査官、特に少年担当をしたかったのです。そのために、大学4年生の時、私は文教育学部在籍でしたが、家政学部の教授に相談して、特別に受験指導をしていただいていました。その頃、私の専攻学科担任の教授から進路面接の時に、埼玉県で高校の教員になることを強く勧められました。当時は保健体育科の高校の授業で、ダンスが重要視されるようになり、指導要領に具体的に明記される話も出ていました。私は舞踏教育学を専攻していましたから、当然のありがたいお話であると思いましたが、当時の私は教員という職業は全く選択肢にありませんでした。むしろ、一番嫌いな職業でした。が、担任の教授からの強いすすめで、埼玉県高校教員採用試験を受験し、教員になり、約40年間勤めたわけです。

 教員の道に入り、徐々にはまり込んでいく自分がいました。でも、常に、いつかやめよう、家裁の調査官の受験をしよう、と何かにつけて学校で辛くなると気持ちの中には逃げ道のように沸き上がる気持ちがありました。そうこうするうちに、だんだん教育の厳しさが分かり始め、仕事のやりがいや価値に目覚めてきたように思います。やってやろう、いつの間にか、本気になって生徒や授業に向き合っていたし、特に、生徒指導の大変な学校では、どうすれば気持ちを開いてくれるのだろうか、と教育相談にのめり込んでいました。

 教育、人を育てることの意義、素晴らしさは、教師になってから、生徒と向き合ううちに、私の中で育っていったと思うので、生徒に感謝しなければなりませんね。

ホッとできる時間は?

 あまり考えたことはありません。思い立つと即実行、なので、好きなことや楽しいことに没頭していること、それが、リラックスなのかもしれません。よく、マグロみたい、と言われます。泳いでいないと死んでしまう、ということですかね。

 今一番夢中になっているのは、フラメンコです。もともと舞踏が好きで大学で専攻していましたから、もともと表現の世界、ノンバーバルの力に魅力を感じています。退職後すぐに、色々調べて、レッスンスタジオを探し、その時、目にとまったスペイン人の男性の先生の赤羽にある教室に入門しました。本当に魅力的で、ジプシーという世界を何百年も放浪した民族が、スペインから出られなくなって定住を余儀なくされた結果生まれたフラメンコのパワーに魅了されています。

 福祉施設や高齢者のデイサービス等で依頼を受けて踊らせてもらっています。今はスタジオに通う時間がないので、近くのスタジオで自主練習しています。時には、友人と一緒に練習しています。今後、ずっと続けていきたいですね。

百周年を迎えるにあたってのメッセージを

 校長として赴任したとき、同窓会室のアルバム90冊の1冊を手に取り、パラッと開い た瞬間の感動、あの先輩方の目の強い圧力、視線の先の私を見透かされているような力強さ、今でも鮮明に記憶しています。まさに「立志」の思いが伝わってきました。「伝統の優美 時代(とき)の華 学び競いて婦徳を高め 凛として輝く女子校の雄 松女」

 これは、その頃の私の頭の中に過ぎった言葉、先輩方の姿を私なりに感じて言葉にさせていただいたのです。脈々と思いが伝わる歴史の凄さを感じました。ある意味脅威です。百年の時間を振り返り、感謝し、次世代への継承を果たす役目が、私たちに課せられた責務と感じます。松女を巣立った同窓生、在校生、全ての力を一つにして、前進する松女にエールを送りたい。若い世代には、凛としてクリエイティブに生きて欲しい。そんな願いを込めて、百周年スローガンを「凛・輝・創・生」としました。

 百周年を単に式典で終わらせず、さらに、101年以降も、松女がしっかり前を見据えて、苦難あろうとも、時代を切り開きながら前進する力を発揮できるよう、願わずにはいられません。

インタビューを終えて

- FINISH -

 インタビューを終えたあと、しばし言葉が出てきませんでした。

 すごいです。本当にすごい。決して平坦ではなかった人生の歩みを、すべてご自身のエネルギーにされ、熱く語られる及川さんの姿、高い波動に、ただ圧倒されました。自分も何かしなければと、熱と想いの伝わりを感じました。

 百周年に向けて、心を一つにしていきましょう。伝統をつなぎ、新たな歴史を創るために。

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